【教育】諭す叱り方は万能ではない!感情的に叱ることが必要なワケ!!

今の若い教員を見ていると、感情的に叱ることに抵抗がある人がいるようです。
正確な理由は分かりませんが、「恐怖感」「トラウマ」「威圧的」などのネガティブな面ばかり強調されて、「ちゃんと話せば分かってくれる」という耳障りの良い言葉を真に受けているからだと思います。
しかし、これは人間の本質を無視したもので、いかにも学者らしい考え方です。

諭す叱り方と感情的な叱り方

教員になるような人や学者になるような人は、長い間、理性で自分をコントロールして多くの成果を上げてきました。
何十年も生きていく中で、苦しいこともあっただろうし、道を逸れたくなることもあったと思います。
でも、本能を理性で抑えて、行動を頭でコントロールしてきたのでしょう。
そんな成功体験を持つ教員にとっては理性は万能であり、したがって叱るときも理性的に話せば分かってもらえると考えるのです。
自身が幼いときには感情的になっていたことを忘れて・・・。

一方、慶應義塾大学の創始者である福沢諭吉は、こんな言葉を残しています。
まず獣身をなして後に人身を養う (『福翁自伝』より)
意味は「先に獣のようにたくましい精神・肉体を身につけること。その上で学問を通じて人としての見識と知識を広めるべし」です。
人間の行動原理の根本は感情です。
感情が弱ければエネルギーも生まれず、どこか無気力な人間となってしまいます。
この感情を育てるのに必要なのが、様々な感情の経験であり、感情的に叱ることはこれに大きな影響を与えます。
確かに恐怖心はトラウマを生む可能性もありますが、「ふざけるな(怒)」「怒られたくない(恐怖)」という感情を呼び出し、それがそのまま行動エネルギーに変わるのです。

諭す叱り方万能説の何が問題か?

諭す叱り方が有効なケースはたくさんあります。
しかし、決して万能ではありません。

よく言われるように、子どもは痛みとともに善悪を学んでいきます。
「なぜ人を殺してはいけないの?戦争で殺したり、経済格差で殺したり、有害物質の垂れ流しで殺してるじゃん。人間以外の動物は平気で殺してるじゃん」
この質問に理論的な解答はありません。

ぶっちゃけ人を殺す理屈なんて簡単に作れます。
しかし多くの大人は感情的に「人を殺すべきでない」と考えています。
そして、理論で諭そうとして言葉に詰まるのです。
なので、善悪を身につけさせるときには、感情を使って叱らなくてはいけません。

また、諭す叱り方だけをする場合、全ての行動を理論的に考えて決めるようになりやすく、とても生き辛くなります。

・むこうの仕事よりこっちの仕事の方が稼げるから、やりたくないけどこっちを選ぼう。
・イライラするけど相手にも立場があるから、ここは自分の感情を抑えよう。
・ケータイの落し物を見つけたら、相手は困っているだろうし、自分が落としたときも助けてもらいたいから、交番に届けよう。

理性を用いれば、確かにより賢い行動ができるでしょうが、これでは100点の行動を目指すだけのコンピューターです。
本人の気持ちは二の次になってしまいます。
結果、エネルギーはどんどん落ちていきます。

これが仮に、感情的に物事を判断していたらどうでしょう?

・やりがいがあって楽しいから今の仕事をしている♪
・イライラするから相手と衝突することも仕方ない!
・落し物を拾ったら交番へ。無視するのは罪悪感があるから嫌だ!

感情的に動くことで、ときには損することもあると思いますが、こちらの方が人間的でエネルギッシュに感じませんか?

人間は不快を避け、快を求める生き物です。
そのため、恐怖心を使う感情的な叱り方よりも、諭して理解させる叱り方のほうが耳障りがよく、今の世の中に受け入れられやすくなっています。
でも、叱るあなたも、叱られる子どもも一人の人間です。
エネルギーのもととなる感情をないがしろにしてはいけません。
諭す叱り方が有効なケースも多いですが、感情的な叱り方も大切であることを忘れないでください^^

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